4月(前半)

 躁の季節。暖かくなって調子が良くなってきたので、前半と後半に分けることができる。

 

3DS

 3DSのインターネットサービスが終了すると聞いて、春休み中に実家から3DSを持って帰った。

 3DSにはカメラが搭載されており、映像も記録することができた。小学生の頃は、何かあるたびに3DSのガビガビ画質のカメラでビデオや写真をとっていたような気がする。私は過去の自分がどんなものを撮っていたのか気になって、カメラフォルダを見てみた。

 結論から言うと、ほとんどがゲームのスクリーンショットばかりで大したものは入っていなかった。どこかのタイミングで、これは黒歴史になると気づいて消してしまったのだろう。

 しかし、二つだけ私の黒歴史チェックリストから漏れた映像が入っていた。漏れた、というよりは、これは残しておいてもセーフだと思ったのかもしれない。(今見返すと、確かに私自身はほとんど映っていなかった)

 その二つの映像は、同じ日に撮ったものだった。

 小学四年生か五年生頃、当時の友人十数人でハロウィンパーティーをしていた。今考えるとクラスに十何人もパーティーをするような友達がいてすごい。

 一つ目の映像は、そのパーティーの様子を定点カメラで撮った懐かしいホームビデオだった。 それぞれみんな、百均で買ったであろうハロウィングッズを身につけて、お菓子を食べたりゲームをしたりしていた。

 改めて見ると、あの頃、面白いな〜と思っていた人は、今見てもちゃんと面白かったし、おしゃれだな〜と思っていた人は、今見てもおしゃれだった。そういう人たちに小学生の私は憧れていて、今見てもあの頃の感性はそれほど間違っていなかったな、と思った。間違っていなかったというか、私が変わってなさすぎるだけかもしれない。

 それ以外は特に語るようなこともない映像だった。

 二つ目の映像は、そのパーティーが開催されていた友達の家の近くの川で、炭酸飲料を思いっきり振って開けるという映像だった。これは本当に面白かった。

 まず、炭酸飲料を振る係の女の子が徐にマフラーを取って、傍の友人に預ける。(ちなみにマフラーを受け取った子は、初音ミクとコラボしたパーカーを着ていて、時代を感じた)

 炭酸飲料振り係の子はその後、炭酸飲料を振りながら急に走り出して、私の隣にいた男の子に「おい!どこいくねん!」と言われていた。ストレートなツッコミすぎて、めちゃくちゃ笑った。

 しばらくすると、炭酸飲料振り係の女の子は戻ってきて、ついに炭酸飲料が開けられそうになる。すると、また私の隣に座っていた男の子が「この決定的瞬間をシャッターにっ」と言って、カメラを構えるポーズをし、聞こえるか聞こえないかくらいの声で「カシャッ」と言った。これが本当に面白かった。「決定的」が小学生特有の滑舌の悪さで「徹底的」に聞こえてたのも面白かった。「な、何て??」と思ってしまった。でも、本当に面白かった。小学生の小ボケでこんな笑ってしまうことあるんだ……。しかも、その小ボケ、誰にもツッコまれてなかった。それが余計に面白かった。君のボケは時を超えてめちゃくちゃウケたよ、ありがとう。

 その後、炭酸飲料は十余人の「3!2!1!」というカウントの元、開封され、泡が勢いよく溢れてきた。それに対して、小学生たちは驚いたように口々に感嘆の声を上げていたが、私だけ「めっちゃ地味やな」と一笑に伏していた。何て嫌な子供なんだ……。カメラを回していることから、全く楽しんでないわけないのに、何故か冷笑している。本当に嫌な子供すぎる。

 この映像の黒歴史的部分は、ここだけだ。それ以外、私は一言も話してない。つまり、カウントにも参加していない。本当に本当に嫌な子供だ。

 それにしても、炭酸飲料から泡が吹き出る瞬間を友達と見て楽しむってすごい遊びだなと思った。今同じことをしても楽しめるだろうか。

 

•冷笑

 最近読んだ本に『鬱病は神を信じない人がかかりやすい(意訳)』みたいなことが書いてあった。曰く、神を信じない者は、心の拠り所(依存先)が無いから、最終的に何にも縋ることが出来ないと。つまり、最後には神が助けてくれる、というある意味では楽観的な考えを持てないのだ。

 そう考えると、冷笑系はかなり精神的に困ることが多い。

 まず、冷笑系の人間は何も信じることができない。最近、宗教の勧誘を面白おかしく追い払う動画が流行っているように、冷笑系の人間は「神なんていう存在しないものを信じるなんて馬鹿じゃないですか笑」となりがちだ。馬鹿にならないように、冷笑系は神を信じない。

 では、人間はどうだろうか。例えば、「誰かが親友の借金の連帯保証人になり、しかし夜逃げされた」などの話があるとする。すると冷笑系は「親しい人であってもそこまで信用しちゃダメでしょ笑」となり、人間に深入りしない自分を良しとしてしまう。誰に対しても、自分の身を切って相手を助けるなんて馬鹿馬鹿しいと思ってしまうのだ。

 また、人間不信の冷笑系は、誰に対しても自分を開示しないクールな自分を演出しようとする。友達すらも内心は信用しておらず、秘密を話せば絶対漏らされるし、何かあったら縁を切ってやろうと思っている。

 それでは、今度は、信じられるのは自分しかいないという話になるが、この考えに対しても冷笑系は「いや、物事は多角的に見ないと!自分の尺度でしか物事を測れないと、自己中な人間になっちゃうでしょ笑」と考えて、自分すらも信じられなくなってしまう。冷笑系の人間は無駄に謙虚だ。

 そうなると、冷笑のよすがはどこにもないことになる。そして、冷笑系が本当に困ってしまった時に過去の自分が作り上げた論理に苦しめられるのだ。神も人も自分も信じれず、信じてしまうと、かつて自分が馬鹿にしていた『視野の狭い人』になってしまう。どっちにも進むことができず、停滞に陥る。

 今、世の中は冷笑の時代に入っている気がする。熱さを前時代的だとバカにして、誰もが効率的に生きようとしている。クールキャラがもてはやされる時代なのだ。「真面目な人間は割を食う」とか言って、みんな上手に生きようとしている。

 私もその一人だし、今こうやって冷笑系を冷笑しているような文章を書いていることがそのことの何よりの証明だが、それでも私は誰しも冷笑のままではいけないと思う。

 互いの意味のない部分を分かり合おう。分かり合えなければ分かり合えないことを確認しよう。そうしなければ、私たちのコミュニケーションに、過去に、人生の全てに意味はない。

 

•3月のある日

 実家で母親が度々ドラマを見ていて、私も同じドラマを、別のことをしながら話半分程度に見ていた。見ていたというか、情報が勝手に入ってきて、大体こういう話なのかな……?って分かるくらい。登場人物も設定もほとんど知らなかった。

 多分、恋愛ドラマだった。若くして起業した女性社長と、韓国人が恋愛するドラマ。「きりたっぷみさき」?という言葉が頻繁に出てきていて、多分そこは重要な場所だった気がする。内容はほとんど知らないけど、王道の恋愛ドラマなのかと思っていた。昔からの付き合いの男と、新しく出現した男がヒロインを取り合う的な。

 でもある日急に、「実は私、心が読めるんです」というセリフが耳に飛び込んできて、SFだったの⁉︎とびっくりしてしまった。恋愛ドラマが急にSFになると、本当にびっくりする。